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  • 執筆者の写真Shiori ICHIKAWA

tagboat ART SHOW 展示作品について①

先日まで大丸東京店にて開催されていたtagboat ART SHOWは、無事会期が終了しました。

お越しいただいた皆さん、オンラインで作品を見ていただいた皆さん、ありがとうございました。

久々の大規模な展示で、ソワソワしっぱなしでしたが、普段とは違う環境で絵を観てもらい光栄でした。


これから4回にわたって、展示した4作品について、補足的な意味でお話したいと思います。

今日は、「穴の先、コルドバ(猫の手、暖かさの拝借)」について。


 

「穴の先、コルドバ(猫の手、暖かさの拝借)」



この作品のベースにあるのは、実家のこたつでほかほかに温まった猫の手を握った時に思い出した、夏のコルドバのとんでもない暑さの思い出です。

友人たちとコルドバに行ったのは、2013年のこと。外は蜃気楼が見えるほどに暑くて、手足が常に強い日差しに照らされ暖められていました。

猫は暖かい場所が好きで、湯気が出そうなくらい体を暖めていることもしばしば。私はその手を握った時、彼らは家から出たことがなく、この先も一生家の中で過ごすけれども、あの感覚と同じものを知っているのではないかと想像したくなり、描き始めました。


暑さから半ば逃れるように向かった、目的地のメスキータ。石造りによって涼しい室内を抜けて、建物の外に出ると、オレンジの中庭という有名な中庭があります。この絵は、私の記憶の中のそのオレンジの中庭を描いたものです。






暑さで疲れた私たちは、中庭でしばし休憩しました。

暑さの厳しい場所であるからか、水が出るところが多くあって、緑色の美しい植物がイスラム建築のように規則正しく並んでいました。その中で、私は鳩に会いました。日本で見るような色ではなくて、白い鳩。遠く離れた場所に来ても、鳩は鳩らしく、気取らずにただそこに暮らしていました。


私はまだその頃、動物の絵を描いていなくて、今のような食いつき方はしなかったものの、なんだか気になって、追いかけてよく観察したのを覚えています。この記事を書きながら、あれ写真を撮っていたかもと思い出し、掘り出してみたのですが。それでびっくり。2匹写っているし、想像の中の通り真っ白で足が赤かったのです。私の頭の中で、ちゃんと生きていたのでしょうね。なんだかうれしくなりました。



オレンジの中庭で出会ったハト

オレンジの中庭と猫の手を組み合わせたのは、これが2回目です。(前回はs+artsさんで展示しました。)

1作目は、まだ私のコルドバへの印象に全てを委ねていたような感覚があります。



1作目の作品

前回の作品を発表した後も、まだ気になっていて、そんな時に「文化の盗用」について学ぶ機会がありました。今回の2作目の作品は他の文化や宗教を扱うということに意識を費やしたという背景があり、一作目とは意味合いが大きく変わっているのではないかと思います。

今回の作品を描くにあたり、あらためてメスキータについて勉強しました。


メスキータとは

スペイン、コルドバにある宗教施設です。あえて宗教施設という言葉を使うのは、メスキータがキリスト教とイスラム教の2つの宗教のモスク、聖堂であったという歴史を尊重するためです。

メスキータの場所には、元々はキリスト教の教会がありましたが、イスラム教が布教目的に侵攻し、785年にあの有名な赤と白のアーチが立ち並ぶモスクとして建築されました。(「メスキータ」は「モスク」がスペイン読みになった名前です。)

長くなるので省略しますが、その後レコンキスタ(国土再征服運動)によって、コルドバは再びキリスト教の土地となり、メスキータもカトリックの大聖堂としての役割を担うことになるのです。

内部の建築には、モスク時代のメッカを指す部分、キリスト教大聖堂時代の礼拝堂が混在し、とても複雑な作りになっています。

オレンジの中庭は、モスク時代に、信者たちが体を清めた池も残ります。


その歴史を踏まえて、再度絵に向き合ってみると、日本人としてコルドバの絵を描くことの意味が見え始めました。

私が描こうとしている、また、1作目で描いたコルドバは、私の中でどのような存在であったのかという視点が生まれたわけです。それは紛れもなく、「観光地」が始まりであったというのは、言うまでもありません。

私は旅の中のたった2日、コルドバを歩いただけであって、私がみたコルドバや、メスキータや、その土地の人たちや、ハトのことを本質的にはよく知らず、だからこうやって、気軽に組み合わせてみたりすることができたのです。その行為を俯瞰してみると、とても現代の人間らしい行動だなと思います。

つまり、消費をしているわけです。観光地としてのコルドバを。猫を。ハトを。

だから私は消費する人間の立場から、ポスターのような文言を加えました。私は、コルドバという観光地や、猫でさえも消費しているかもしれない、この猫は、暖かさだけを消費しているかもしれない。そして、ハトたちもきっと何かを。生き物は、奪われて、奪ってでできていて。私は、その中で何かを調べて、こうやって反省したりしながら、ただ歩き続けるしかないんだなと思いました。

私にとって絵とはそういう存在なんですね。


 

今回、絵を売るという行為についても、考える時間が多くありました。

絵を展示したとき、言語に収まらぬ絵の中の何かにもし共感してくれた人がいて、その人がそれを持ち帰ってくれるなら、その問いを共有するために絵を売る、というのがわたしがやりたいことだなと、最近はよく思います。

ここで書いた長文でもわかるとおり、一枚に込めている熱量がちょっと普通の画家から見るとキモいくらい大きいタイプなので、絵を売るのは、覚悟がいることです。今回買ってくれた方たちもきっと、それを持ち帰ってくれたと感じています。


私はこんな経験をしてこんな絵をかいてみて。絵を手元に置いてくださる人たちはきっとこれから何かと出会ってその問いについて考える新しい素材を得て、深めていく。たまに本当に嫌になっちゃうようなことが起こるこの世の中ですが、一緒に進んでいきましょう、という気持ちです。


ではまた次回。



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