前回から少し時間があいてしまいました。
全4回にわたって行っている、展示作品についてのお話です。
これまでの回:
第1回「穴の先、コルドバ(猫の手、暖かさの拝借)」
第2回「トップシークレット登山(ゾウムシ)」
第3回「ゾウムシのマッチング」
最終回の今回は「ハトお断り」についてお話します。
私にとって、ハトお断りといえば駅です。通勤の合間に目に入る数々のハトの肖像。さらに顔を上げると、しっかり巣をつくっていたりします。人間からいて欲しくないと思われているその場所に、ちゃっかり強かに生活している鳩を見ると、私は少し嬉しくなります。人間が勝手にそこにいて、勝手に秩序を作っているだけであることを、思い出させてくれるからかもしれません。
私は街で暮らす鳥を見つけた時少し凝視してみることが好きです。そうしてみると、鳥は必ずといっていいほど高確率で、顔を横に向けてこちらにぐいっと片目を寄せます。鳩を駅で見つけた時もそうです。調べてみると、鳥は横に一番ピントが合うので、こちらを更によく見ようとしているらしいのです。これは私の想像の域を出ませんが、彼らにとって人間とは、彼らに無関心な生き物で、なんなら彼らの存在を認識していないと思われる存在なのかも?などと思っています。
というのは、駅で人を見ていても、顔を上げて鳩を探している人などおらず、皆鳩の存在をなかったことにしているし、鳩にとってもそれが当たり前であって。だからじっと私が彼らをみると、彼らは、「え?こいつにはこっちがみえているの!?」という意外性から、あのような仕草をするようにも見えるからです。
鳩は知能が低いと一般的には言われますが、あの様な仕草をする生き物は、知能が低いと言えるのだろうかとたまに疑問に思います。彼らが何も考えていないように見えるのは、人間を関わる対象から除外しているだけのようにも見えるからです。また、こんなふうにも思います。私たちに彼らが見えていると鳩が知ったとき、鳩はその行動を変えることもあるのではないかと。例えば、気を使って巣を端に作ったり、フンを落とすタイミングを気遣ったり。そしてそれは逆の方向の効果も含んでいるように思います。つまり、彼らが私たちを認識して気を使える存在であると私たちが知った時、私たちは社会のシステムを彼らにも開かれたものにする必要性が見えてくるのではないかとも。
鳩を含め、無害な生き物を「ないもの」ととらえて社会を構成する人間の行動というのは、なかなかに笑えない問題を抱えています。それは人と人、民族対民族、価値観対価値観の間でも実際に起きていることであるし、今中東で起きているジェノサイドとも繋がることです。人間の残酷性と未熟さみたいなものは、実は私たちの周りにあふれているなと感じます。生活の中の小さな一つ一つの事象が、全体主義的にまとまりを見せた時が虐殺や戦争の始まりなのかもとも。私は何の力もない、ただ絵がちょっと描ける小さい女で、虐殺をとめることはまず無理でしょう。しかし、本当に「何もできない」なんてこともなかろうよ、と、ちまちまこうしてその人間の残酷性に抗って生きています。
見えていなかったものを見えるようにする、というのは、私が最近自分の絵に求めていることでもあります。例えば、ミミズやゾウムシなどの昆虫のことを知れば知るほど、空き地の草むらが密度を持っていくあの感覚。ただの草むらはただの草むらではなく、それを「ただの」と表現していた自分に知識がなかったから、見えるものが少なかっただけだということ。
悲しいニュースに日々打ちひしがれますが、知ることが私ができることだと思います。
全4回にわたって、作品にまつわる話をしました。
このようにじっくり一つの作品について掘り下げるというのは、自分にとっても大変良い経験となり、やってみてよかったと思います。
次回の展示は、TAKU SOMETANI GALLERYにて個展を、今年の7月に予定しています。
大きな絵もありますよ。どうぞお楽しみに。ではまた!
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