top of page
  • 執筆者の写真Shiori ICHIKAWA

tagboat ART SHOW 展示作品について②

全4回にわたって行っている、展示作品についてのお話です。

第1回は、「穴の先、コルドバ(猫の手、暖かさの拝借)」についてお話しました。

第2回の今回は、「トップシークレット登山(ゾウムシ)」について。



 


「トップシークレット登山(ゾウムシ)」






ゾウムシのことを知ったのは、宮竹 貴久 さん(著)の書籍、「「死んだふり」で生きのびる 生き物たちの奇妙な戦略」 の中でのこと。死んだふりというと私の中ではダンゴムシが馴染み深いですが、そういえば他にも死んだふりする生き物はいるのだろうか…と思っていた矢先、よくお世話になっている神保町の東京堂書店でこの本に出会いました。




宮竹さんは、死んだふりをする生き物に注目したパイオニア的存在の研究者で、死んだふりを継続する時間や、死んだふりを長くする虫同士、逆に死んだふりが短い虫同士などを何世代も掛け合わせたりなどして、そのメカニズムなどを研究しています。


その中で写真で出てきた、「死んだふりをするアリモドキゾウムシ(右)と本当に死んだアリモドキゾウムシ(左)」という比較写真に胸を打たれ、口元をおさえ、悶えたのは記憶に新しい…。

その写真を見た時に思い出したのは、小さい頃家の近くの草むらを歩いた思い出です。


人が少ない土地だったので、人間は少数派で、生き物の中に置いてもらっているという感覚があるような場所でした。とは言ってもこの世界は人間用に整備されているので、小動物も歩いていない。つまりそこは虫の楽園です。

草むらに足を踏み入れると、靴の周りに小さな虫がパラパラと飛び出し、跳ね、散っていきました。きっとあの中にもたくさんのゾウムシがいたのだと思います。その時も私の足元で、うわあ!とびっくりして何匹か死んだふりをしていたのだと思うとたまらない気持ちになります。そこではドラマが繰り広げられていたのです。そして私はそのドラマに気づかなかったのです。

私が立ち去った後も、虫はただ黙々と死んだふりをして、しばらくしたら起き上がっていつもの生活に戻っていた。その体験をもとに、2023年のはじめに石の下で人知れず筋トレをしていたゾウムシのジムをうっかり見つけてしまった「ジム(ゾウムシ)」という絵を描きました。それがゾウムシを初めて描いた絵です。



小さきものたちの存在に励まされるような気持ちでその作品を描き上げた後、この「私は気づかなかった」という体験が気になり始め、今回の作品に繋がりました。


気づかなかったというのがどういうことなのかと考えてみると、私はつまり、ゾウムシというものが自分の中に存在せず、見えていなかったということです。これはハイデガーの存在論にも通じるところだと思います。

ハイデガーは存在論の中で、物事を見たり触ったりするには、そのものがそこに存在していないといけないと論じ、その存在というものについて考えを深めていきました。

私の体験とその存在論との関係は、草むらで虫が飛び跳ね散っていったことに「死んだふり」というドラマが存在していたことを認識することもできず、ただ通り過ぎていったという点に見出せると思います。私はゾウムシが全く見えていなかった。よってその時私の中にゾウムシはまだ存在していなかったのです。

私はその後、さまざまな出会いをして、ゾウムシのことを知って、私の中にゾウムシを存在させ、再び過去の記憶を呼び起こすことによって、解像度を上げてこの世界を見ることができたわけです。


絵を描くのは、どういうことなのか、というのを、日々考えます。

AIが簡単に絵を生成してくれるこの世界で、絵を自分の手で描く意味とはあるのかと。

私は意味がある、と言いたい。それは、私にとって絵を描くということは、この世界を見ることであるからだと考えます。この時代に生き、知らないものを知り、それを私の中に存在させていく。その方法が私にとって絵だと思うからです。


日々、知らないことや見たことのないことに出会います。神保町で働いていると、その本の多さに圧倒され、なんだ、もうこの世界のことは語り尽くされてしまって、もうすべて答えがでてしまっているのではないか、と絶望することも多い。(それはインターネットでも同じですね。)でも、はたしてそうなのか、とも思うのです。それらのすべての本や記事はそれぞれのエキスパートが書いているけれど、これとこれ、あれとこれの組み合わせはまだ無限で、自分は美術をやっているから、美術とその哲学を組み合わせたら、また、私がこの人生で経験したあの草むらの経験のような事象と組み合わせたら、それは私だけのものであると思うのです。それを誰かに語って共有できたら、そんなに素晴らしいことはありません。

私はそれをやりたいのだなと思います。


この「トップシークレット登山(ゾウムシ)」は、人間を山に見立ててドラマチックに登山するゾウムシを描いたものですが、この人物の中にはまだゾウムシは存在していなかったとしたら、それはゾウムシにとっては、もしかしたらいいことかもしれません。危険なレジャーを楽しむゾウムシたちかもしれませんから。

逆にこの人物がゾウムシのことを知っていてもまたいいかなと思います。それはそれで、やさしく扱ってくれると思うし。余談ですが、以前セーターを着ているときに蚊柱のような虫の大軍に突っ込んでしまったことがあって、そのまま電車で見下ろしたらセーターに数匹引っかかって身動きが取れなくなっていたことがありました。昔は虫の解像度が低く、あ、小さい虫、と簡単に払ってしまっていたのですが、その時の私はもう虫に特別な感情を抱いている人間に変わってしまっていたので、一匹一匹手に移動させ、外に放ちました。手の上に移動した小さな虫は、ひっくり返ってみたり、じっとしていたり、虫はこんなに個性があったのか、世界はこんなに情報に溢れているのか、とうれしくなった記憶があります。


長くなりましたが、読んでいただきありがとうございます。

ではまた次回。





bottom of page